イエローナイフは朝

それが人生

本を買うのが下手なのを直したい

お題「やめたいこと」

 

本を買うのが下手だ。

本は良い。漫画はもちろん大好きだし、小説も好きだ。画集もついつい買ったりするし、雑誌も時々見ると面白い。美容院で暇つぶしくらいにしか見ないんだけど、あれって色んな特集載ってるよね。グルメ情報とか占いとか季節のお出かけスポットとか。これ何?服の雑誌?

本はタブレットでも読めるようになったけど、やっぱり紙媒体が好きだ。画面は目が疲れるし、昔からの紙の触り心地が良い。ページを捲る音とか、紙それぞれの匂いとか、装丁とか、次のページに行った時の見開きの表現とか、とにかく紙は良い。

 

その中でも、漫画は特によく買う。

休みの日に出かけた日はとりあえず本屋に寄るし、好きな漫画の発売日には必ず本屋に行くし、新しい土地に行ったらまずどこに本屋があるか探す。

集めてる種類も多いから新巻が出る時期には5、6冊くらいまとめて買う。好きな本は発売日を調べておくし、Amazonの検索履歴からおすすめされる一覧は全部漫画の新巻ばかりだ。助かります。

でも、やっぱり本屋自体が好きだ。本屋によって並べ方も違うし、推してる作品も違うし、その本屋の特徴っていうのが出る。マイナーな作品もちゃんと置いてあると「幅広く手出してるなぁ」って思うし、駅の中にある小さな本屋には旬のものしか置いてなかったりするから、今のトレンドがわかりやすい。紀伊国屋とかジュンク堂みたいな大きな書店では画集とかも置いてあるから、そういうところをふらふらしてぱらぱら捲るだけで楽しい。店員さんが書いたポップを見て「この人もこの本好きなんだな」って思ったり、作者のサイン入り色紙が飾ってあるのを眺めたりするのも好きだ。それぞれの本屋に空気があるし、その違いを味わうのが好きだ。

 

でも、少し困ってるのが、本屋での買い物の仕方だ。

本が好きだから、本屋に行って買う時にある程度の量を必ず買ってしまう。

例えば、好きな漫画の新巻が出たから本屋に行く。目当ての本を一冊取ったら、そのままレジに行くことができない。何故か自分は昔から「漫画は三冊以上まとめて買う」という謎ルールを無意識で設けていて、一冊でレジに持って行ったことがほとんどない。少なくても二冊、大体は三冊くらい買う。目当ての本を一冊と、前から気になってた本だったり、最近続きを買ってない本の続きだったり、電車で出かける前や美容院に行く時に読む用に買うのをとっておいた本を買う(これ私以外の人もやるんですかね)。大体は漫画だけど、どうしても漫画で買いたい本がなかったら小説を買う。

なんというか、一種の強迫観念のレベルに達していて、とにかく一冊で本を買えない。

 

学生時代にアルバイトを始めてからこの傾向は顕著になって、そのせいで冗談抜きに本で床が抜けそうになってしまう。なので、ある程度溜まると、「この本は一生手元に置いておいて読むものか?」と分別を始める。そして大体100冊前後くらいの単位で売ってる。そうしないと本棚に到底収まりきらない。

今の会社に入ってから、本棚に本が入らないことを同僚に話したら、日曜大工が得意な同僚が家に来てオーダーメイドで本棚を作ってくれた。天井までぴったりくっつく背の高さで、以前のように床に本のタワーがいくつもそびえることはなくなった。ありがたい。

 

いい加減いい年になってきたので、そういう衝動買いみたいなのはやめようと思い、最近は買う前に心の中で「これを買ってずっと手元に置いておくのか?あの本棚にレギュラー入りするか?お前絶対今だけ読みたいだけだろ?」と問いかけるようにしている。本屋に来る他の人は当たり前のようにできるのかもしれないけど、これが最近になってようやくできるようになってきた。昔よりも売る冊数は大幅に減ったし、とりあえず部屋の床は抜けてない。

 

昨日の夜突然思い立って大掃除をしてたら、もう随分読んでない漫画があったので売ることにした。なるべくなら買ってずっと手元に置いておけるような、物を大事にする人になりたいんだけど、でも色んな本に出会いたいし「読んでみたい」と思った気持ちを大切にしたいし、そう思わせた作者にそのお金がいくなら素敵なことだし、もっと色んな話を色んな人に描いて欲しいという気持ちもある。だから買うことを制限することが全て良いことではないかもしれないけど。これはまた別の話だね。

 

まぁ、読みたいと思わせる本が多いっていうことは良いことだし、文字は好きだ。でも、本来の自分のペースで本を買いたい。そして、一冊一冊を大切にして、どれも手離せないほど大切だって言い切りたい。そんな本に囲まれて暮らしたい。

今日もきっと帰りに本屋に寄る。馴染みの本屋で、昨日も見たいつもの新刊コーナーをチェックして、しばらくふらふらすると思う。それが楽しい。

 

 

大人の定義

最近、弊社に新人が入ってきた。

 万年人不足なので新しい戦力は大歓迎だし、それによって教える手間が増えたとしても、まぁ、なるようにしかならない。地獄のような繁忙期には新人が付いてこれるかは不安だけど、なんていうか、頑張れ。出来るだけフォローはする。

 

それはそうとして、その新人は20代女性。自分より3〜4歳ほど年上らしい。前の会社を辞めてうちで正社員を希望して入ってきたとか。

その人が、なんていうか、幼い。

元々顔立ちも童顔でメイクもほとんどしてないというのもあるけど、言葉遣い、声のトーン、立ち振る舞い、そこらへんを総合してみると、ものすごく幼く見える。下手したら中学生くらいを彷彿とさせる。

朝に「おはようございます」と挨拶をする時の抑揚のなさとか、声の小ささとか、「ありがとうございます」と言われた時のなんとなく流れるような喋り方とか、お昼を食べる時にあまり喋ろうとせずスマホをずっと触っているのとか。元々大人しい女性なんだと思う。

なんかこう言うと、新人に目を付けてる嫌な先輩と思われそうだけど、そういうつもりではない。別に昼休憩くらい好きにしても良いと思うけど、入ってきて間もないのに他の人と交流しようとか、そういうのはないのかなぁ〜なんて思ったりした。自分の方が年下なのに、「なんか今時の若者って感じだな」と感じてしまった。

 

子供っぽいとか大人っぽいとかって、皆どこで線引きをしてるんだろう。

体つきはあると思う。ひょろっとしてた男の子から、肩幅が広がったり腕が太くなったりしてガタイの良い男性になる。ぺたんこの体だった女の子がくびれてきて、メイクを覚えてお洒落な服を着て女性らしくなっていく。でもきっとそれだけじゃないし、外見だけなら「あいついい年して」なんて言葉もない。

大人というのは、社会人らしい振る舞いができるか、ということなのかもしれない。愛想を覚えて誰かを褒めるようになったり、初対面の人とでもそれなりに話ができるようになる。嫌な気分になってもおおっぴらには出さず、相手に上手く伝える。

つまり、コミュニケーション能力だと思う。社会に出れば多種多様な人がいて、その人達にある程度合わせてやっていくことができるか。些細なことで癇癪を起こしたり、自分の思う通りにならなくて怒るような人は勿論上手くいかないし、「あいつはいい年してガキみたいだ」と言われてしまう。それは内面が子供から成長していないから。

それでもそういう人も沢山いる。自分の仕事が上手くいかなくて周りに当たったり、すぐに部下に怒鳴ったり、その直後にコロッと機嫌が直ったりする人もいる。そんな人に振り回されてる人もいる。全くもって難しい。

勿論、コミュニケーション能力だけじゃなくて、人生経験というのはあると思う。そういうところから出る深みみたいなものがその人の魅力や人となりになる。だから一概には言えないけど、結局色んな経験をしてる人なら、それに応じて何らかの変化があるようにも思う。彼女にはそういうものがなかった。なんていうか、まっさらに感じられた。

 

彼女は、何故幼いと感じたんだろう。

少し控えめに喋る感じとあまり抑揚のないトーンは、どこか学生の頃を思い出させる。大人になると、嫌でも喋り方が身につくと思っていた。盛り上がってる場に上手く乗る方法だったり、どう話せば相手が好ましく思うかだったり、人と話して生きてくるとそういうものが自然と洗練されていく。だから彼女はあまりコミュニケーションを得意とせずにここまで来たんだろうと感じられた。

 

コミュニケーションは難しい。本当に。嫌いな人は嫌いだし、できるだけ人と関わらないで生きていきたいという人もいる。

磨き方というのも正解がない。「人と話せるようになる本」とか、「初対面の人と3分で打ち解ける方法」とか、そんな特集が本屋に行くとゴロゴロ転がってる。皆苦手だし、困ってるのかもしれない。日本人がディベート下手というのもあるかもしれない。

海外の多くの国では、一人飯というものが習慣にないらしい。食事は誰かと共にするのが当たり前だし、一人飯など生きてる間にしたことないという人がほとんど。レストランなどで一人で食事をしていると隣の人にチラチラと見られて、しまいには「なんで一人なんだい?一緒に食事をするかい?」と初対面の人に誘われるほど、一人での食事に習慣がない。それほど人との交流に重きを置いている。エレベーターに乗り合わせた人と短い間でも会話を交わすらしいし、エレベーターに黙って乗ってる日本人はとても奇妙に見えるらしい。

日本では喋る機会が少ない。公共の場では知らない人と喋らなくても良いようになっている。喋り下手が多くなってしまうのも無理はない。

 

話が大分逸れてしまった。

 

まぁ、ここまで書いといてなんだけど、別に喋るのが苦手でも得意でもなんでも良いと思うし、日本が駄目だとか言ってるわけじゃないし、日本はむしろ好きだし、日本のオタク文化最高だし、ご飯は美味いし、海外旅行よりも国内旅行に行きたいし、何が言いたいかと言うと、年上の新人さんには頑張って欲しいということと、これを書いていて電車を乗り過ごしたということです。

おしまい。

 

 

葬儀の仕事に対して「偉いね」って何が偉いの?

葬儀業界に勤めてる、という話をすると、7割くらいの確率でこの会話が生まれる。

「今何の仕事してるんだっけ?」

「葬儀業界だよ」

「葬儀やってるの!?へぇ~すごいね、偉いねぇ

あるいは、親戚と集まったときに、

「お葬儀の仕事してるんだって?」

「そうなんですよ」

「そっか~、でも偉いわよねぇ、葬儀の仕事してるなんて」

 

メッチャ偉い偉い言われる。

 

その会話があまりにも多いので、いつも「なんで?」って聞いてる。

そうすると、

「だって、いつもそんな悲しい現場にいるなんて……」

「皆やりたがらない仕事を率先して選ぶなんて、すごい」

「人の死とか苦手だから絶対無理」

「仕事でそんな重いのはしんどい」

「身内のだって耐えられないのに、他人のも見なきゃなんて考えられない」

 

大体こんな感じ。

あ、ちなみに身内の葬儀の方が圧倒的にしんどいので、他人の葬儀に関しては何も感じません。というかいちいち感じてたら仕事出来ない。そりゃ人によっては少し感じることはあるけど、完全に仕事スイッチ入れて集中してるから涙は流れないので、最後のは少し的外れ。

あとは、私がまだ年齢的には若い部類に入るというのもあって、枕詞に「まだ若いのに」と付くことも多い。

 でも、若いとか関係なくない?というか、偉いって何だろう?

そういう人達は、一日走り回って営業活動をしている人や、汗を流しながら必死に建築現場で動いてる人達のことも一緒に偉いと言うことはほとんどない。

何故なら、「葬儀というのは人が忌み嫌う仕事で、それをわざわざ選んでやっている」ということが根底にあるから。そこから来る「偉い」という言葉なので、この文脈からだと不動産だとか医療事務だとか、そういう職業に就いてる人達に向けられることはない。

「偉い」と口にしている人達は、自分達が無意識に差別のような意識を持っていることに気付いていないかもしれない。でも、人間は死に関係する出来事には遠ざかる傾向があるので、当然と言えば当然かもしれない。

 でも、この「偉い」というのは本当に勝手な言葉だと思うことがある。例えば、葬儀屋には「偉いねぇ」と言えるけど、特殊清掃員やってますと言ったらどうなるんだろう。おそらく、大多数の人が「えっ……」とドン引きするんじゃないか。そこに真っ直ぐと「偉いね」の言葉がかけられることはない気がする。

この「偉いね」というのは、「自分の範疇の中で遠ざけたい仕事を選んでいる人に対して向ける言葉」であって、同時に「自分が許容できる範囲内での仕事に向けられる言葉」でもある。

 ここまで言ってしまったけど、勿論これは主観的な意見なので、人によって違うとは思う。ただ、葬儀屋に向ける「偉い」という言葉は、他の職種に向けて言う「偉い」と種類がかなり異なるんじゃないか、といつも思っていた。

 

そもそも、偉いという言葉があまり好きじゃない気もする。

なんだか上目線に感じるし、自分は関係ないですという感じがひしひしと伝わってくる。

「葬儀やってるの?偉いねぇ~(自分はやらないけど)」

みたいな。(被害妄想入ってるかもしれないけど)

いや、別に全然良いんですよ。決して葬儀屋やれとか言ってるわけじゃないし、葬儀屋好きでやってるわけだし。ただ、偉いって何なんだろうってずっと引っかかってた。

 自分からしたら、自分以外の仕事してる人は皆すごいと思う。事務作業でずっとエクセルに入力していく仕事とかやったら3分でハゲるだろうし、芸能人とかでテレビに出てる人は皆すごいストレスと戦ってそうだし、新聞書いてる人なんかは毎日毎日あの決まったスペースにぎっしり文字を埋める仕事してて尊敬するし、自分が出来ないことをやってる人達は皆すごい。そうやって自分がやりたくない仕事を他の人がやってくれてるから世の中は回ってるわけだし、感謝しなくちゃなんだろうと思う。

 多分、葬儀屋に対して「偉いね」と言う人達も、この感情と似てる部分があるんだと思う。

「私は葬儀の仕事とかできないし、誰かがやらないといけない仕事だもんねぇ」

と言われたこともある。

それを聞いて、「あぁ、きっと同じ感情なんだろうなぁ」とは思った。

 

葬儀という仕事が好かれてないことは分かってる。ぼったくりだとか言われるし、人の死がなければ仕事にならない。そりゃ昔に比べたら「終活」という言葉が生まれたりして、自分の最期をどう迎えたいか、なんていうエンディングプランが組まれる時代にもなってきたし、皆死に対して前向きになってきている。

それでも、忌み嫌われる仕事というのは簡単には消えないし、死に向き合うのは難しい。だから、受け入れてほしいとは言わないけど、自分に関係ないようには言わないでほしい。

自分の大事な人が亡くなったら絶対に関わりを持つ職業だし、死は誰にとっても他人事ではないから。

 

 

 

 

友人に「人の好意を金で買ってる」と言われた話

久しぶりに昔からの友人と会ったときの話。

お互い社会人になってからも変わらず会っていて、その時も久しぶりに会えたということで近況を報告しあっていた。仕事はどうだとか、恋人がどうだとか、職場の先輩がムカつくとか、そんな他愛のない話をしてた。

 

その中で、私が何気なく、「お金が貯まらないんだよね」という話をした。

薄給の上に生活費、車の維持費、趣味、元々浪費癖もあるのか、貯めようと思ってもなかなか難しい。そんな話をしたら、「頑張りなよ-」と言いながら笑って聞いてくれてた。

その後に、「それに、会社の人におやつとか買ってったりしちゃうからさ~」なんて話を何も考えずに話したら、友人がえっ?という顔をした。

友人「おやつ?買ってくの?」

私「うん、忙しいときとか皆大変だろうしと思って、お昼買いに行ったついでにコンビニでスイーツとか買って、配ってる」

友「えっ!?なんでそんなことしてるの?」

私「なんで!?なんでって言っても……疲れてる時にそういうのあったら嬉しくない?他の人も買ってきてくれたりするし、私もお返しみたいな感じで」

友「それってさ……人の好意をお金で買ってるみたいじゃない?

 

……えっ?

衝撃だった。

 

友「それさ、スイーツとか買っていって、喜んでもらおうと思ってるんでしょ?そういうもので自分の好感度を上げようって気持ちがないって言える?」

私「こ、好感度?いや……そりゃ喜んでほしいとは思ってるけど……」

友「さっきお金が貯まらないとか言ってたけど、そんなことしてたら貯まらないに決まってるよ。はっきり言って無駄だよ。その分貯金に回した方がよっぽど経済的だと思う。それに、そうやってお金で買った人間関係よりも、そうじゃないところで築かれた人間関係の方が本物だと思う」

 

この時、私は新しい概念に打ちのめされていた。まさか自分が意識してないところで人間関係を金で買っていたのかもしれないなんて、と思ってショックを受けていた。自分が気付かなかっただけで、そんな卑しいことを考えていたのかな?と思うと、うまく反論出来なかった。

 

だけど、これを別の人に話したところ、「それは違う」と言ってくれた。

友人2「それは違うでしょ、お前がやってるのは人間関係への投資だと思うよ」

私「投資?」

友2「例えばおやつを買っていったりする時に、好感度を上げようとか、後でお返しをしてもらおうって気持ちだったり、お返しがなくて怒りの感情が沸いたりしたらお金で好感度を買おうとしてるって言えるけど、そうじゃないなら違うと思う。純粋にその人のことを思ってやってるなら受け取り手が一番分かるはずだし、その人を見てれば好感度を上げようとしてやってるかって分かるから」

私「あ~、確かに見返りは求めてないかな。好きでやってることだし、たまに『この前のお返し』とか言われてもなんのことだっけ?ってなるし」

友2「それなら良いんじゃない?そういう積み重ねで勿論好感度が上がることもあると思うけど、それはその人の人柄を見て上がるものだから、単純に物で上がってるものじゃないと思う」

 

この言葉を聞いて、なんだかほっとした。

今まで好きでやってきてたことが、自分の気付かない意識のところで金で買っていたのか?と非常に悩んでしまっていたのがスッキリしたといった感じ。

 

今こうやって書いていると、いくつか気になるところがあった。

まず、「金をかけない人間関係こそ本物」とは一体何なのだろう。

その時はなんとなく流されてしまったけど、この意味は今でもよく分からない。金をかけると本物じゃなくなってしまうんだろうか。風俗と恋人の違いみたいな?でも風俗だってちゃんと関係が成り立ってるわけだし、偽物というわけじゃない。いやなんか違う、この話はやめておこう。

それに気になったのは、その友人の人間関係の希薄さだ。その友人は人付き合いが苦手で友達も少ないし、会社でも苦労しているらしい。「お金で好意を買う」という発想が出てきてしまうこと自体、人と関係を築いていくことが難しいという人柄が出てしまってるんじゃないかと感じてしまった。大事な友人なのだが、こういう考え方があるのは寂しいし、他の場所でも良い人間関係を築いてほしいと思う。

 

この話を書きながら、ふと前に会った時のことを思い出した。

一緒に映画を見に行こうと言った日に、その友人が寝坊した。

「ごめん!ちょっと遅れる!ダッシュで準備する!」

とメールがきたので、迎えに行く途中で少し早めに出てコンビニに寄って、友人の朝ご飯を買った。飲むヨーグルトと、小さいクロワッサンが何個か入ってる袋を選んだ。

友人が慌てて車に乗ってきたときに、「朝飯買ってきたから食べな。朝そんなに食べられないかもしれないと思っていくつか入ってるクロワッサンにしたから、食べられる数だけ食べな」と言った。

そしたら友人は「や、優しい…神……!」と感動してた。その後もずっと「気が利くよね」「ありがとう」と言ってくれていた。良かったな~なんて思ってほっこりした。

 

これと同じことなんだけどなぁ、思い出してくれると良いなぁ。


 

 

 

 

やりたいことを仕事に出来るかは結局運

仕事。

社会人、もしくは高校を卒業してから、もっと早い人は子供の頃から、仕事をしているという人もいる。

その目的は色々あるとは思うけど、まぁ概ねの人達は「生活していくため」だと思う。生きていくためにはお金が必要で、お金は働かないともらえない。だから仕事をする。

 

 仕事を楽しんでしている、という人はどれくらいいるんだろう。

よく聞くのは、日曜日の夕方から憂鬱になるだとか、街角で石油王とぶつかって知り合って結婚したいだとか、石油王と幼馴染みになりたかったとか、そんなことばかりだ。かくいう私も一週間に一回は「あー宝くじ当ててぇー」とか言ってる。

つまり皆仕事が嫌なのだ。嫌いな人に頭を下げて、愛想笑いをして、無限に降ってくる仕事で胃をキリキリ痛めるのが苦痛で仕方がない。

 でも、仕事が「嫌い」なのかと言われると、そうではない人もいると思う。

大量の仕事を捌けた時、お客さんから感謝された時、仲間達と辛い時期を乗り越えたときには、達成感が生まれる。その瞬間は嫌いじゃないし、次の仕事のモチベーションにもつながる。

なら、普段ももっと仕事が楽しいと思える職種に出会えれば一番良い。

朝9時に出勤して18時まで仕事だとしても、一日の三分の一は仕事をしているわけだし、それが週5だとしたら、圧倒的に仕事をしている時間の方が圧倒的に長い。働かないと(大体の人は)生きていけないんだったら、その働く時間を楽しいものにしてしまった方が良い。

 

 私は、大学で心理学を専攻して、人の人生に関わる仕事がしたいと思って葬儀業界を選んだ。ちなみに葬儀業界は「冠婚葬祭」というくくりで人を募集しているところも多いけど、冠婚葬祭だとブライダルも含まれるけど、私は根暗なので他人の幸せそうな顔を毎日見るなんて間違っても無理という理由で葬儀専門の会社に絞った。

 仕事を選ぶ時に一番大事にしてたのは、「たとえ人間関係や仕事内容がしんどくても、やりたいことをやってればそれが支えてくれる」と思える仕事を選ぶこと。結局会社なんて人間関係が9割とか言われるし、どんなところでもしんどいことはある。だから、辛いときにも「私はこの業界で働けてる」と思えるところで働きたかった。

 今は葬儀業界でn年経って、あの時の選択はとりあえず間違っていなかったなーと思えてる。上司にブチ切れそうな時もあるし、繁忙期には信じられない件数の葬儀が入ってきて皆般若みたいな顔して仕事してるけど、やりがいはある。

日本人は勤勉で仕事に真面目すぎるとかよく言われるし、せめてもっと皆が「仕事楽しい」と思える職種に出会えれば良いのに、と思う。

 

 じゃあ、どうやったらその「楽しい」と思える仕事ができるのか。

これは結局、運でしかない

オメーここまで言ってて運かよボケって感じだけど、世の中の人は楽しい仕事とやらに就けるなら全人類そうしてるに違いないし、皆そんなに馬鹿じゃない。じゃあ何故それができないのか。

 

①やりたい仕事の敷居が高い

 子供の頃に憧れて宝塚に入りたい!と思って調べてみたら倍率27倍だったとか、声優になりたい!と思ってオーディション受けたら全落ちとか、秘書の仕事やってみたい!と思ってエントリーシート送ったら書類選考だけで全部弾かれたとか、そんな感じ。ちなみに最後のは大学の同期の実話。世知辛い

 やりたい仕事があってもそれに就けるかどうかは個人のスキルによるし、容姿によって当落がある場合には更に生まれ持ったものも関係してくるので非常に難しい。そりゃスキルは磨けば良いし、顔に至っては整形すればなんとかなるみたいなパワータイプの意見もあるかもしれないけど、それは別として、敷居が高すぎて諦めて、普通のサラリーマンや事務仕事に……というのは少ないと思う。

 

②そもそもやりたいことがない

 これが一番多い気がする。そこまで熱心になれることもないし…やりたいことって言われても……みたいな。

 ここも結局運の要素で、やりたいことに出会えるというのは、仕事をするにあたって何をするか?と選択するまでの人生で、何と出会って何を感じてきたのかが一番大事になってくる。何かの舞台に行って感動して、そういうものづくりの現場に携わりたくなったとか、高校の頃に留学して、そのまま忘れられずにイタリアの会社に勤めるとか、人生の中で何か衝撃を受けたり、何かの体験を忘れられずにその後に影響するとか、そういったことで仕事を選ぶというのは少なくない話だと思う。そして、その選んだ仕事が自分に合ってれば最高。

 ただ、やりたいことがないまま社会に出たという人は、こういった経験を得られないままの状態で仕事を選ばなければいけない。その場合見るのは、「給料」「年間休日」「ボーナス」とかそのあたりで、やりがいなんて文字は浮かんでこないと思う。そうすると結局、金曜の夜を待ち侘びて、日曜の夕方が来ないことを祈るような生活になってしまう。白髪と煙草の本数だけが増えていくだけの悲しい人生になる。

 

③仕事に楽しさを求めてない

 これは少し違うけど、この人種も間違いなく存在する。仕事に楽しいとかキモッ…意識高い系?別に仕事なんてその場限りなんだし稼げれば良いじゃん、というやつ。

 この人種は、趣味人間に多い。オフの日に充実してれば良い、むしろオフの日にやりたいことがあるので土日固定休の仕事が良いとか、趣味のために稼げれば仕事はどうでもいい。趣味を楽しむ時間までのつなぎみたいに仕事をする。

 ただ、やっぱりこれも趣味の時間までに嫌いな仕事と向き合う時間が膨大すぎて、耐えられなくなるというのはよくある。実際、「別に稼げれば良いし」と言って適当に就活した挙句三ヶ月で退職した友人が山ほどいた。

 

 なんか色々書いてはみたけど、結局言いたいのは、仕事にするなら絶対自分が「これならしんどくても頑張れる」と思うやつの方が良いし、それなら楽しいものを選んだ方が良いけど、楽しいものに出会えるかどうかは今までの人生次第なので、まぁ頑張りましょうという感じだ。

 ちなみに、「好きなものを仕事にする」というのは、仕事にするとそれが嫌いになるという説もあるので、なんとも言えない。難しいね、仕事選びって。

 全く参考にならないと思うけど、世の就活生さんが、後悔しない就活をできますように。頑張ってください。

 

 

宇多田ヒカルの歌は歌として聴けない

 去年の秋頃に、宇多田ヒカルが8年ぶりにアルバムを出して大ヒットした。

 

www.amazon.co.jp

 

 私も昔から宇多田ヒカルの歌が好きで、学生時代なんかはiPodに入れて毎日のように聴いていた。カラオケでも宇多田ヒカルばかり歌い、辛い時には宇多田ヒカルを聴いて励まされていた。

宇多田ヒカルが人間活動と評して休止していた明けに出たのがこの「Fantôme 」だった。発表されてから非常に楽しみにしていたし、発売まで指折り数えて待っていた。けど、今までとは全く異なる気持ちで新しいアルバムを聴くことになった。

 

 二年前、母を癌で亡くした。母の身体に異変があってから三カ月ほどで癌が判明し、それから一年と経たずに癌の進行に押されて亡くなってしまった。母の身体が弱っていくのを隣でずっと見ていた一年は、地獄だった。母のことを人前で話すことにほんの少しだけ慣れてきたのがつい最近で、まだまだ受け入れるには時間がかかると思う。

 そんな時に、宇多田ヒカルが新しいアルバムを世に出した。当時、「これは亡くなった藤圭子さんに宛てたアルバムだ」なんて話があちこちから上がっていた。事前にCMやらニュースZEROのエンディング曲やらで使われてたみたいだが全く聞いていなかったので、アルバムで全ての曲を初めて聴いた。というか聴いてみて驚いた。

 

 全然聴けねぇ。

なんだこのアルバム。一曲一曲が殴りかかってくる。いちいち歌詞が内臓をえぐってくるみたいでまともに聴けたものじゃなかった。

 中でも、七番目に収録されてる「真夏の通り雨」。

 

www.youtube.com

 

誰かに手を伸ばし あなたに思い馳せる時

今あなたに聞きたいことがいっぱい 溢れて 溢れて

 

 母がいなくなってから、毎日この気持ちだ。すげぇ。なんで分かるの?今の自分にドンピシャすぎて衝撃だった。

 生きてるうちに話したかったこと、教わっておきたかったこと、報告したいこと、毎日毎日生まれては行き場がなくなって消えずに燻っている。面白いこと、悲しかったこと、驚いたこと、そんな些細なことを毎日話していた母に言えなくなってしまったことが悲しくて、そんなことを考えるだけで今でも涙が止まらなくなる。

 生きて、会って、話をする。他には本当に何もいらなかった。仕事上がりに疲労の溜まった体を引きずって病院に毎日通い、面会時間ギリギリの30分だけ一緒にいて、「家のことはちゃんとやってるよ、だから心配しないで」と言って母を安心させる。それが日常だった。だんだん弱っていく母を見ながら、それでも会って、母の手に触れるだけでよかった。それ以外に何もいらないというか、それしかない生活だった。

 そんな当時のことが、宇多田ヒカルの歌を聴いてるだけで走馬灯のようにぶわーっと広がって、比喩じゃなく目の前が見えなくなる。早朝の通勤中なんかに気を抜いて聴いてしまったらもうアウトで、目を真っ赤にして出社する羽目になる。だから今でも迂闊に聴けない。

 

 真夏の通り雨はミュージックビデオも購入したけど、それも迂闊に見れない。これも見てるだけで涙が出てしまう。

 思うんだけど、最近の宇多田ヒカルのミュージックビデオは、少し前に出た桜流しもそうだけど、宇多田ヒカル本人は出ずに風景や不特定多数の人間の日常が映し出されるような映像になっている。真夏の通り雨のミュージックビデオは、ただ人々の日常が映し出されているだけなのに、それがどれだけ尊いものなのかを知ってしまった今では、そんな何気ない風景の映像だけでも自然と涙が出てくる。それはきっと宇多田ヒカルもその生活の尊さを知っているからじゃないかと勝手に想像している。

 夕方に手を繋いで帰る親子、夏に花火をする子供達、早朝に漁船に乗って海に出ていく男性、その人達にとって当たり前のことでも、突然その生活がなくなってしまうこともある。それが分かってからは、その当たり前の生活がどれだけ脆くて、美しくて、大切なものか。もっと早くそれが当たり前じゃないということに気付きたかった。

 

 宇多田ヒカルが歌っているのは歌じゃなくて、人生というか、空気というか、何かそんなものだと思う。ただの言葉じゃなくて人生そのものを歌ってるから、昔のように軽い気持ちで聴いてはいけない。簡単に殺されてしまう。

 いつか、「嵐の女神」を聴きながら、何も考えずに口ずさめるようになりたい。それには、まだ当分時間がかかる。

 

 

たくさんの愛を受けて育ったこと

どうしてぼくらは忘れてしまうの

 

お母さんに会いたい

 

 

 

生活

  ここ数年で人生が目まぐるしく変化してるのもあって、それを適当に書き殴ったりアレする場所があるとアレかなーということでアレすることにした。

  人生について、性癖を満たすための話、終わりつつある弊社についてなどを思いついた時に書く予定だけど、マメな性格じゃないので続かないかもしれない。

期待せずにやっていこうというアレです。


ではもう眠いのでアレします。おやすみなさい。