イエローナイフは朝

それが人生

ニーアオートマタはアクションゲーではなく散歩ゲー

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ニーアレプリカント神ゲーだったので、ずっと発売を待ってたんだけど、バタバタしてたらプレイが今になってしまった。

トーリー、音楽、戦闘システム、そこらへんは色んな人が評価してるし全て最高なので、とにかく世界観の美しさを伝えたい。

ニーアオートマタは、機械生命体に地球を侵略された後の地球が舞台なので、全体が廃墟化している。なので、廃墟フェチは絶対にやった方が良い

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メインの廃墟都市。

スクショの撮り方が下手なのでもっと綺麗なところがあるのに伝えられないのが申し訳ない。

 

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集合住宅地廃墟。通称マンモス団地。

砂漠の中で風化している感じが出てて、個人的に一番好き。

小さいブランコやすべり台もあって、すごく物悲しい。

 

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水没都市

ここも非常に雰囲気があって素晴らしい。建物の中から水が出てる感じが最高。地盤沈下で未だに沈み続けてるという設定らしい。

 

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遊園地廃墟。

ディズニーオタクの友人が感動してぼーっと打ち上がってる花火を眺めてたらしい。

他にも色んな場所があるので、是非自分の足で歩いてみてほしい。

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トーリーは終わったので、次はハードでやりながらスクショを撮る旅にでも出ようかと思う。

トーリーも進めたいしサブクエも充実してるからそっちもやりたい、武器も沢山あるから集めたい、でも流れる音楽も良いからすぐに進みたくない、そして綺麗な場所があるとスクショを撮るのに忙しい……

最近のゲームはすぐに終わってしまうとか聞いたけど、ニーアオートマタはやりたいことが多すぎて全く終わらない。ストーリーも文句なし、スタイリッシュ戦闘システム、音楽は前作に引き続きニーアの世界観を見事に引き出してる。

こんな最高なゲームがありますか?いや、ない。

皆ニーアオートマタやりましょう。ダイレクトマーケティングでした。

 

シリアルキラー展Ⅱ前期・後期に行ってきた

www.vanilla-gallery.com

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2016年に初めてヴァニラ画廊で展覧会が開催されてから、もう一度行きたくてたまらない展示会だった。また今年も開催される、しかも前期と後期で作品を分けて開かれると聞いて、どちらも絶対行こうと決めていた。

2016年の時は、Twitterシリアルキラー展の情報を知った。その前にエドワード・ゴーリーの展覧会にも行っていたので、元々ヴァニラ画廊のことは知っていた。その後に開かれたラブドール展も最高だった。ヴァニラ画廊はこういったアブノーマルな展覧会ばかりを開いていて、それが私の性癖と非常にマッチしているのでありがたい限りである。いつもありがとうございます。

 

シリアルキラー展は、実在する殺人鬼達が残した絵や葉書、手紙、当時の新聞記事、中には下着までもが展示されている。その異空間にある種のエネルギーを持っているそれらが壁いっぱいに飾られていて、広いとは言えない二つの展示室を回るだけで一時間ほどかかる。

去年行ってはいたけど、今年は新しく見る作品も多くあった。特に一番印象に残ったのがウェイン・ローだった。

シリアルキラ-は、家庭環境が不遇である場合が非常に多い。両親がドラッグやアルコール依存症なのは当たり前、虐待、離婚、貧困、そういった問題を抱えていたシリアルキラーが多い中で、ウェイン・ローはそういった問題が見当たらなかった。父親は空軍戦闘機のパイロット、母親はバイオリンの指導者、ウェイン・ローも7歳でバイオリニストとしてデビュー、その後バスケットチームにも所属、成績優秀。経歴だけ見ていると何の問題もないように見える。

そんな彼も銃乱射事件を起こして二名死亡、四名の重症者を出す事件を起こしたが、彼の作品として展示されているのはかなり奇妙な写真だった。海をバックに佇む女性や、道の真ん中で楽しそうにジャンプする女性などの写真など、その顔の部分が糸で刺繍して見えなくなっている。他にも女性が座っている写真では、顔や手など肌が露出している部分が全て黄色で塗りつぶされていたり、かなり異質だ。見た時に狂気を感じて思わず鳥肌が立ってしまった。実際に見てみないと伝わりづらいとは思うけど、公式ホームページで一点だけウェイン・ローの写真が載っていたので是非見て欲しい。

ウェイン・ローが殺人に至ったのは、神や悪魔の影響ではなく、自らの怒りの産物だと語ったらしい。刑務所内でのインタビューに答える際に、若い人達に何か伝えることはあるかと問われた時に、

「あなたが愛しているものが奪われたくないのであれば、他の人の愛を奪わないことです。――もう誰も私の話など聞かないと思いますが。」

と答えたという。最後の自虐的な言い方が気になって仕方がない。ウェイン・ローはどんな人だったんだろう。何を思って人を殺したのか。ウェイン・ローは何かを奪われたんだろうか。

 

今回、シリアルキラー展二回目ということで、どうしてももう一度見たいものがあった。エドワード・ゲインの署名入りの聖書。手の平サイズの本当に小さな聖書で、長年ずっと肌身離さず持っていたようにボロボロになっている。エド・ゲインは、狂信的なキリスト信者だった母親の元で育って、性的なことは汚らわしいと言われ続け、他の人と交流することも許されなかった。そうして歪んで成長してしまったエド・ゲインの人格の破片がこのボロボロの聖書にあるんじゃないかと思うと、目が離せなくなってしまった。それが今回も展示されていて、もう一度会えた喜びでずーっとショウケースの前で眺めていた。

元々「羊たちの沈黙」の映画を見てエド・ゲインのことを知って、展示会で彼の名前があるのを見て心躍った。エド・ゲインが実在していた証が見られる。非常にドキドキしながら展覧会に行ったら、なんとエド・ゲインの墓拓があった。墓の拓ってなんだ。魚拓でもあるまいし、墓の拓なんて取るのか。新しすぎる。今回も後期にしっかり飾ってあった。ちなみに、他のシリアルキラーでは遺髪とか書いて飾ってあるのもあって、なんというか、H.N氏のコレクター魂には脱帽という感じだった。

 

今回は後期も含めると三回目というのもあって、後半になってくるといくつか見たことのある作品もあった。H.N氏がシリアルキラーの内面に触れられるような作品を意識して展示していると語っていたので、新しく見に来る人達のために同じものも飾っていたのだと思う。日常的に見るものではないので、同じ作品が飾られていても何度でも見たい。

展覧会を開いたコレクターのH.N氏は、パンフレットの前書きで、シリアルキラーにまつわるものをコレクションする複雑な心境を語っていた。誰に見せるわけでもないコレクションが1000点も超えて、一体何をやっているのだろうと漠然とした感情に襲われるという。彼らの物語に踏み込み過ぎないように、普段はコレクションを自宅の一番奥の部屋に閉じ込めているらしい。シリアルキラー達も気になるが、H.N氏自身のことも気になってしまう。どんな気持ちでコレクションしているのか、どんな人なのか。あんなに力を持っている作品たちと一緒にいて、自分が壊れないんだろうか。きっと自分をコントロールするのが上手な人なのだと思う。私がもし「エド・ゲインの聖書をあげるよ」と言われてもきっと受け取れないと思う。30分でも3時間でも眺めていられるけど、ずっと一緒にいられる自信はない。エド・ゲインの見えない力みたいなものが強すぎて、きっと自分が不安定になってしまう。

私も、シリアルキラー達が遺したものに何故心惹かれるのかはわからない。興味本位、怖いもの見たさ、どちらもある。でも一番は、シリアルキラー達が同じ人間であったことを感じたいと思っている。同じように息をして、ものを食べて、誰かを好きになった人もいたのに、どこか根本的に何かが違ったのか、それとも少し何かが変れば自分も同じような道を歩むのか、それを作品たちを通じて感じ取りたい。

シリアルキラー展に展示されている作品はどれも強いエネルギーを持っているから、対峙しているだけで相当の体力を使う。出た時はいつもへとへとになっていて、必ず帰り道に喫茶店に寄ってしばらく体と心を休ませなければいけない。

きっとまたシリアルキラー展があったら、懲りずにせっせと足を運ぶんだろう。そして、シリアルキラー達の内面に触れたいような、触れたくないような、自分でもよくわからない気持ちを持て余して、見終わった後には清々しいようなもやもやしたような感情になるんだろう。それが気持ち良いので、結局どうしようもないのだ。

 

 

 

本を買うのが下手なのを直したい

お題「やめたいこと」

 

本を買うのが下手だ。

本は良い。漫画はもちろん大好きだし、小説も好きだ。画集もついつい買ったりするし、雑誌も時々見ると面白い。美容院で暇つぶしくらいにしか見ないんだけど、あれって色んな特集載ってるよね。グルメ情報とか占いとか季節のお出かけスポットとか。これ何?服の雑誌?

本はタブレットでも読めるようになったけど、やっぱり紙媒体が好きだ。画面は目が疲れるし、昔からの紙の触り心地が良い。ページを捲る音とか、紙それぞれの匂いとか、装丁とか、次のページに行った時の見開きの表現とか、とにかく紙は良い。

 

その中でも、漫画は特によく買う。

休みの日に出かけた日はとりあえず本屋に寄るし、好きな漫画の発売日には必ず本屋に行くし、新しい土地に行ったらまずどこに本屋があるか探す。

集めてる種類も多いから新巻が出る時期には5、6冊くらいまとめて買う。好きな本は発売日を調べておくし、Amazonの検索履歴からおすすめされる一覧は全部漫画の新巻ばかりだ。助かります。

でも、やっぱり本屋自体が好きだ。本屋によって並べ方も違うし、推してる作品も違うし、その本屋の特徴っていうのが出る。マイナーな作品もちゃんと置いてあると「幅広く手出してるなぁ」って思うし、駅の中にある小さな本屋には旬のものしか置いてなかったりするから、今のトレンドがわかりやすい。紀伊国屋とかジュンク堂みたいな大きな書店では画集とかも置いてあるから、そういうところをふらふらしてぱらぱら捲るだけで楽しい。店員さんが書いたポップを見て「この人もこの本好きなんだな」って思ったり、作者のサイン入り色紙が飾ってあるのを眺めたりするのも好きだ。それぞれの本屋に空気があるし、その違いを味わうのが好きだ。

 

でも、少し困ってるのが、本屋での買い物の仕方だ。

本が好きだから、本屋に行って買う時にある程度の量を必ず買ってしまう。

例えば、好きな漫画の新巻が出たから本屋に行く。目当ての本を一冊取ったら、そのままレジに行くことができない。何故か自分は昔から「漫画は三冊以上まとめて買う」という謎ルールを無意識で設けていて、一冊でレジに持って行ったことがほとんどない。少なくても二冊、大体は三冊くらい買う。目当ての本を一冊と、前から気になってた本だったり、最近続きを買ってない本の続きだったり、電車で出かける前や美容院に行く時に読む用に買うのをとっておいた本を買う(これ私以外の人もやるんですかね)。大体は漫画だけど、どうしても漫画で買いたい本がなかったら小説を買う。

なんというか、一種の強迫観念のレベルに達していて、とにかく一冊で本を買えない。

 

学生時代にアルバイトを始めてからこの傾向は顕著になって、そのせいで冗談抜きに本で床が抜けそうになってしまう。なので、ある程度溜まると、「この本は一生手元に置いておいて読むものか?」と分別を始める。そして大体100冊前後くらいの単位で売ってる。そうしないと本棚に到底収まりきらない。

今の会社に入ってから、本棚に本が入らないことを同僚に話したら、日曜大工が得意な同僚が家に来てオーダーメイドで本棚を作ってくれた。天井までぴったりくっつく背の高さで、以前のように床に本のタワーがいくつもそびえることはなくなった。ありがたい。

 

いい加減いい年になってきたので、そういう衝動買いみたいなのはやめようと思い、最近は買う前に心の中で「これを買ってずっと手元に置いておくのか?あの本棚にレギュラー入りするか?お前絶対今だけ読みたいだけだろ?」と問いかけるようにしている。本屋に来る他の人は当たり前のようにできるのかもしれないけど、これが最近になってようやくできるようになってきた。昔よりも売る冊数は大幅に減ったし、とりあえず部屋の床は抜けてない。

 

昨日の夜突然思い立って大掃除をしてたら、もう随分読んでない漫画があったので売ることにした。なるべくなら買ってずっと手元に置いておけるような、物を大事にする人になりたいんだけど、でも色んな本に出会いたいし「読んでみたい」と思った気持ちを大切にしたいし、そう思わせた作者にそのお金がいくなら素敵なことだし、もっと色んな話を色んな人に描いて欲しいという気持ちもある。だから買うことを制限することが全て良いことではないかもしれないけど。これはまた別の話だね。

 

まぁ、読みたいと思わせる本が多いっていうことは良いことだし、文字は好きだ。でも、本来の自分のペースで本を買いたい。そして、一冊一冊を大切にして、どれも手離せないほど大切だって言い切りたい。そんな本に囲まれて暮らしたい。

今日もきっと帰りに本屋に寄る。馴染みの本屋で、昨日も見たいつもの新刊コーナーをチェックして、しばらくふらふらすると思う。それが楽しい。

 

 

大人の定義

最近、弊社に新人が入ってきた。

 万年人不足なので新しい戦力は大歓迎だし、それによって教える手間が増えたとしても、まぁ、なるようにしかならない。地獄のような繁忙期には新人が付いてこれるかは不安だけど、なんていうか、頑張れ。出来るだけフォローはする。

 

それはそうとして、その新人は20代女性。自分より3〜4歳ほど年上らしい。前の会社を辞めてうちで正社員を希望して入ってきたとか。

その人が、なんていうか、幼い。

元々顔立ちも童顔でメイクもほとんどしてないというのもあるけど、言葉遣い、声のトーン、立ち振る舞い、そこらへんを総合してみると、ものすごく幼く見える。下手したら中学生くらいを彷彿とさせる。

朝に「おはようございます」と挨拶をする時の抑揚のなさとか、声の小ささとか、「ありがとうございます」と言われた時のなんとなく流れるような喋り方とか、お昼を食べる時にあまり喋ろうとせずスマホをずっと触っているのとか。元々大人しい女性なんだと思う。

なんかこう言うと、新人に目を付けてる嫌な先輩と思われそうだけど、そういうつもりではない。別に昼休憩くらい好きにしても良いと思うけど、入ってきて間もないのに他の人と交流しようとか、そういうのはないのかなぁ〜なんて思ったりした。自分の方が年下なのに、「なんか今時の若者って感じだな」と感じてしまった。

 

子供っぽいとか大人っぽいとかって、皆どこで線引きをしてるんだろう。

体つきはあると思う。ひょろっとしてた男の子から、肩幅が広がったり腕が太くなったりしてガタイの良い男性になる。ぺたんこの体だった女の子がくびれてきて、メイクを覚えてお洒落な服を着て女性らしくなっていく。でもきっとそれだけじゃないし、外見だけなら「あいついい年して」なんて言葉もない。

大人というのは、社会人らしい振る舞いができるか、ということなのかもしれない。愛想を覚えて誰かを褒めるようになったり、初対面の人とでもそれなりに話ができるようになる。嫌な気分になってもおおっぴらには出さず、相手に上手く伝える。

つまり、コミュニケーション能力だと思う。社会に出れば多種多様な人がいて、その人達にある程度合わせてやっていくことができるか。些細なことで癇癪を起こしたり、自分の思う通りにならなくて怒るような人は勿論上手くいかないし、「あいつはいい年してガキみたいだ」と言われてしまう。それは内面が子供から成長していないから。

それでもそういう人も沢山いる。自分の仕事が上手くいかなくて周りに当たったり、すぐに部下に怒鳴ったり、その直後にコロッと機嫌が直ったりする人もいる。そんな人に振り回されてる人もいる。全くもって難しい。

勿論、コミュニケーション能力だけじゃなくて、人生経験というのはあると思う。そういうところから出る深みみたいなものがその人の魅力や人となりになる。だから一概には言えないけど、結局色んな経験をしてる人なら、それに応じて何らかの変化があるようにも思う。彼女にはそういうものがなかった。なんていうか、まっさらに感じられた。

 

彼女は、何故幼いと感じたんだろう。

少し控えめに喋る感じとあまり抑揚のないトーンは、どこか学生の頃を思い出させる。大人になると、嫌でも喋り方が身につくと思っていた。盛り上がってる場に上手く乗る方法だったり、どう話せば相手が好ましく思うかだったり、人と話して生きてくるとそういうものが自然と洗練されていく。だから彼女はあまりコミュニケーションを得意とせずにここまで来たんだろうと感じられた。

 

コミュニケーションは難しい。本当に。嫌いな人は嫌いだし、できるだけ人と関わらないで生きていきたいという人もいる。

磨き方というのも正解がない。「人と話せるようになる本」とか、「初対面の人と3分で打ち解ける方法」とか、そんな特集が本屋に行くとゴロゴロ転がってる。皆苦手だし、困ってるのかもしれない。日本人がディベート下手というのもあるかもしれない。

海外の多くの国では、一人飯というものが習慣にないらしい。食事は誰かと共にするのが当たり前だし、一人飯など生きてる間にしたことないという人がほとんど。レストランなどで一人で食事をしていると隣の人にチラチラと見られて、しまいには「なんで一人なんだい?一緒に食事をするかい?」と初対面の人に誘われるほど、一人での食事に習慣がない。それほど人との交流に重きを置いている。エレベーターに乗り合わせた人と短い間でも会話を交わすらしいし、エレベーターに黙って乗ってる日本人はとても奇妙に見えるらしい。

日本では喋る機会が少ない。公共の場では知らない人と喋らなくても良いようになっている。喋り下手が多くなってしまうのも無理はない。

 

話が大分逸れてしまった。

 

まぁ、ここまで書いといてなんだけど、別に喋るのが苦手でも得意でもなんでも良いと思うし、日本が駄目だとか言ってるわけじゃないし、日本はむしろ好きだし、日本のオタク文化最高だし、ご飯は美味いし、海外旅行よりも国内旅行に行きたいし、何が言いたいかと言うと、年上の新人さんには頑張って欲しいということと、これを書いていて電車を乗り過ごしたということです。

おしまい。

 

 

葬儀の仕事に対して「偉いね」って何が偉いの?

葬儀業界に勤めてる、という話をすると、7割くらいの確率でこの会話が生まれる。

「今何の仕事してるんだっけ?」

「葬儀業界だよ」

「葬儀やってるの!?へぇ~すごいね、偉いねぇ

あるいは、親戚と集まったときに、

「お葬儀の仕事してるんだって?」

「そうなんですよ」

「そっか~、でも偉いわよねぇ、葬儀の仕事してるなんて」

 

メッチャ偉い偉い言われる。

 

その会話があまりにも多いので、いつも「なんで?」って聞いてる。

そうすると、

「だって、いつもそんな悲しい現場にいるなんて……」

「皆やりたがらない仕事を率先して選ぶなんて、すごい」

「人の死とか苦手だから絶対無理」

「仕事でそんな重いのはしんどい」

「身内のだって耐えられないのに、他人のも見なきゃなんて考えられない」

 

大体こんな感じ。

あ、ちなみに身内の葬儀の方が圧倒的にしんどいので、他人の葬儀に関しては何も感じません。というかいちいち感じてたら仕事出来ない。そりゃ人によっては少し感じることはあるけど、完全に仕事スイッチ入れて集中してるから涙は流れないので、最後のは少し的外れ。

あとは、私がまだ年齢的には若い部類に入るというのもあって、枕詞に「まだ若いのに」と付くことも多い。

 でも、若いとか関係なくない?というか、偉いって何だろう?

そういう人達は、一日走り回って営業活動をしている人や、汗を流しながら必死に建築現場で動いてる人達のことも一緒に偉いと言うことはほとんどない。

何故なら、「葬儀というのは人が忌み嫌う仕事で、それをわざわざ選んでやっている」ということが根底にあるから。そこから来る「偉い」という言葉なので、この文脈からだと不動産だとか医療事務だとか、そういう職業に就いてる人達に向けられることはない。

「偉い」と口にしている人達は、自分達が無意識に差別のような意識を持っていることに気付いていないかもしれない。でも、人間は死に関係する出来事には遠ざかる傾向があるので、当然と言えば当然かもしれない。

 でも、この「偉い」というのは本当に勝手な言葉だと思うことがある。例えば、葬儀屋には「偉いねぇ」と言えるけど、特殊清掃員やってますと言ったらどうなるんだろう。おそらく、大多数の人が「えっ……」とドン引きするんじゃないか。そこに真っ直ぐと「偉いね」の言葉がかけられることはない気がする。

この「偉いね」というのは、「自分の範疇の中で遠ざけたい仕事を選んでいる人に対して向ける言葉」であって、同時に「自分が許容できる範囲内での仕事に向けられる言葉」でもある。

 ここまで言ってしまったけど、勿論これは主観的な意見なので、人によって違うとは思う。ただ、葬儀屋に向ける「偉い」という言葉は、他の職種に向けて言う「偉い」と種類がかなり異なるんじゃないか、といつも思っていた。

 

そもそも、偉いという言葉があまり好きじゃない気もする。

なんだか上目線に感じるし、自分は関係ないですという感じがひしひしと伝わってくる。

「葬儀やってるの?偉いねぇ~(自分はやらないけど)」

みたいな。(被害妄想入ってるかもしれないけど)

いや、別に全然良いんですよ。決して葬儀屋やれとか言ってるわけじゃないし、葬儀屋好きでやってるわけだし。ただ、偉いって何なんだろうってずっと引っかかってた。

 自分からしたら、自分以外の仕事してる人は皆すごいと思う。事務作業でずっとエクセルに入力していく仕事とかやったら3分でハゲるだろうし、芸能人とかでテレビに出てる人は皆すごいストレスと戦ってそうだし、新聞書いてる人なんかは毎日毎日あの決まったスペースにぎっしり文字を埋める仕事してて尊敬するし、自分が出来ないことをやってる人達は皆すごい。そうやって自分がやりたくない仕事を他の人がやってくれてるから世の中は回ってるわけだし、感謝しなくちゃなんだろうと思う。

 多分、葬儀屋に対して「偉いね」と言う人達も、この感情と似てる部分があるんだと思う。

「私は葬儀の仕事とかできないし、誰かがやらないといけない仕事だもんねぇ」

と言われたこともある。

それを聞いて、「あぁ、きっと同じ感情なんだろうなぁ」とは思った。

 

葬儀という仕事が好かれてないことは分かってる。ぼったくりだとか言われるし、人の死がなければ仕事にならない。そりゃ昔に比べたら「終活」という言葉が生まれたりして、自分の最期をどう迎えたいか、なんていうエンディングプランが組まれる時代にもなってきたし、皆死に対して前向きになってきている。

それでも、忌み嫌われる仕事というのは簡単には消えないし、死に向き合うのは難しい。だから、受け入れてほしいとは言わないけど、自分に関係ないようには言わないでほしい。

自分の大事な人が亡くなったら絶対に関わりを持つ職業だし、死は誰にとっても他人事ではないから。

 

 

 

 

友人に「人の好意を金で買ってる」と言われた話

久しぶりに昔からの友人と会ったときの話。

お互い社会人になってからも変わらず会っていて、その時も久しぶりに会えたということで近況を報告しあっていた。仕事はどうだとか、恋人がどうだとか、職場の先輩がムカつくとか、そんな他愛のない話をしてた。

 

その中で、私が何気なく、「お金が貯まらないんだよね」という話をした。

薄給の上に生活費、車の維持費、趣味、元々浪費癖もあるのか、貯めようと思ってもなかなか難しい。そんな話をしたら、「頑張りなよ-」と言いながら笑って聞いてくれてた。

その後に、「それに、会社の人におやつとか買ってったりしちゃうからさ~」なんて話を何も考えずに話したら、友人がえっ?という顔をした。

友人「おやつ?買ってくの?」

私「うん、忙しいときとか皆大変だろうしと思って、お昼買いに行ったついでにコンビニでスイーツとか買って、配ってる」

友「えっ!?なんでそんなことしてるの?」

私「なんで!?なんでって言っても……疲れてる時にそういうのあったら嬉しくない?他の人も買ってきてくれたりするし、私もお返しみたいな感じで」

友「それってさ……人の好意をお金で買ってるみたいじゃない?

 

……えっ?

衝撃だった。

 

友「それさ、スイーツとか買っていって、喜んでもらおうと思ってるんでしょ?そういうもので自分の好感度を上げようって気持ちがないって言える?」

私「こ、好感度?いや……そりゃ喜んでほしいとは思ってるけど……」

友「さっきお金が貯まらないとか言ってたけど、そんなことしてたら貯まらないに決まってるよ。はっきり言って無駄だよ。その分貯金に回した方がよっぽど経済的だと思う。それに、そうやってお金で買った人間関係よりも、そうじゃないところで築かれた人間関係の方が本物だと思う」

 

この時、私は新しい概念に打ちのめされていた。まさか自分が意識してないところで人間関係を金で買っていたのかもしれないなんて、と思ってショックを受けていた。自分が気付かなかっただけで、そんな卑しいことを考えていたのかな?と思うと、うまく反論出来なかった。

 

だけど、これを別の人に話したところ、「それは違う」と言ってくれた。

友人2「それは違うでしょ、お前がやってるのは人間関係への投資だと思うよ」

私「投資?」

友2「例えばおやつを買っていったりする時に、好感度を上げようとか、後でお返しをしてもらおうって気持ちだったり、お返しがなくて怒りの感情が沸いたりしたらお金で好感度を買おうとしてるって言えるけど、そうじゃないなら違うと思う。純粋にその人のことを思ってやってるなら受け取り手が一番分かるはずだし、その人を見てれば好感度を上げようとしてやってるかって分かるから」

私「あ~、確かに見返りは求めてないかな。好きでやってることだし、たまに『この前のお返し』とか言われてもなんのことだっけ?ってなるし」

友2「それなら良いんじゃない?そういう積み重ねで勿論好感度が上がることもあると思うけど、それはその人の人柄を見て上がるものだから、単純に物で上がってるものじゃないと思う」

 

この言葉を聞いて、なんだかほっとした。

今まで好きでやってきてたことが、自分の気付かない意識のところで金で買っていたのか?と非常に悩んでしまっていたのがスッキリしたといった感じ。

 

今こうやって書いていると、いくつか気になるところがあった。

まず、「金をかけない人間関係こそ本物」とは一体何なのだろう。

その時はなんとなく流されてしまったけど、この意味は今でもよく分からない。金をかけると本物じゃなくなってしまうんだろうか。風俗と恋人の違いみたいな?でも風俗だってちゃんと関係が成り立ってるわけだし、偽物というわけじゃない。いやなんか違う、この話はやめておこう。

それに気になったのは、その友人の人間関係の希薄さだ。その友人は人付き合いが苦手で友達も少ないし、会社でも苦労しているらしい。「お金で好意を買う」という発想が出てきてしまうこと自体、人と関係を築いていくことが難しいという人柄が出てしまってるんじゃないかと感じてしまった。大事な友人なのだが、こういう考え方があるのは寂しいし、他の場所でも良い人間関係を築いてほしいと思う。

 

この話を書きながら、ふと前に会った時のことを思い出した。

一緒に映画を見に行こうと言った日に、その友人が寝坊した。

「ごめん!ちょっと遅れる!ダッシュで準備する!」

とメールがきたので、迎えに行く途中で少し早めに出てコンビニに寄って、友人の朝ご飯を買った。飲むヨーグルトと、小さいクロワッサンが何個か入ってる袋を選んだ。

友人が慌てて車に乗ってきたときに、「朝飯買ってきたから食べな。朝そんなに食べられないかもしれないと思っていくつか入ってるクロワッサンにしたから、食べられる数だけ食べな」と言った。

そしたら友人は「や、優しい…神……!」と感動してた。その後もずっと「気が利くよね」「ありがとう」と言ってくれていた。良かったな~なんて思ってほっこりした。

 

これと同じことなんだけどなぁ、思い出してくれると良いなぁ。


 

 

 

 

やりたいことを仕事に出来るかは結局運

仕事。

社会人、もしくは高校を卒業してから、もっと早い人は子供の頃から、仕事をしているという人もいる。

その目的は色々あるとは思うけど、まぁ概ねの人達は「生活していくため」だと思う。生きていくためにはお金が必要で、お金は働かないともらえない。だから仕事をする。

 

 仕事を楽しんでしている、という人はどれくらいいるんだろう。

よく聞くのは、日曜日の夕方から憂鬱になるだとか、街角で石油王とぶつかって知り合って結婚したいだとか、石油王と幼馴染みになりたかったとか、そんなことばかりだ。かくいう私も一週間に一回は「あー宝くじ当ててぇー」とか言ってる。

つまり皆仕事が嫌なのだ。嫌いな人に頭を下げて、愛想笑いをして、無限に降ってくる仕事で胃をキリキリ痛めるのが苦痛で仕方がない。

 でも、仕事が「嫌い」なのかと言われると、そうではない人もいると思う。

大量の仕事を捌けた時、お客さんから感謝された時、仲間達と辛い時期を乗り越えたときには、達成感が生まれる。その瞬間は嫌いじゃないし、次の仕事のモチベーションにもつながる。

なら、普段ももっと仕事が楽しいと思える職種に出会えれば一番良い。

朝9時に出勤して18時まで仕事だとしても、一日の三分の一は仕事をしているわけだし、それが週5だとしたら、圧倒的に仕事をしている時間の方が圧倒的に長い。働かないと(大体の人は)生きていけないんだったら、その働く時間を楽しいものにしてしまった方が良い。

 

 私は、大学で心理学を専攻して、人の人生に関わる仕事がしたいと思って葬儀業界を選んだ。ちなみに葬儀業界は「冠婚葬祭」というくくりで人を募集しているところも多いけど、冠婚葬祭だとブライダルも含まれるけど、私は根暗なので他人の幸せそうな顔を毎日見るなんて間違っても無理という理由で葬儀専門の会社に絞った。

 仕事を選ぶ時に一番大事にしてたのは、「たとえ人間関係や仕事内容がしんどくても、やりたいことをやってればそれが支えてくれる」と思える仕事を選ぶこと。結局会社なんて人間関係が9割とか言われるし、どんなところでもしんどいことはある。だから、辛いときにも「私はこの業界で働けてる」と思えるところで働きたかった。

 今は葬儀業界でn年経って、あの時の選択はとりあえず間違っていなかったなーと思えてる。上司にブチ切れそうな時もあるし、繁忙期には信じられない件数の葬儀が入ってきて皆般若みたいな顔して仕事してるけど、やりがいはある。

日本人は勤勉で仕事に真面目すぎるとかよく言われるし、せめてもっと皆が「仕事楽しい」と思える職種に出会えれば良いのに、と思う。

 

 じゃあ、どうやったらその「楽しい」と思える仕事ができるのか。

これは結局、運でしかない

オメーここまで言ってて運かよボケって感じだけど、世の中の人は楽しい仕事とやらに就けるなら全人類そうしてるに違いないし、皆そんなに馬鹿じゃない。じゃあ何故それができないのか。

 

①やりたい仕事の敷居が高い

 子供の頃に憧れて宝塚に入りたい!と思って調べてみたら倍率27倍だったとか、声優になりたい!と思ってオーディション受けたら全落ちとか、秘書の仕事やってみたい!と思ってエントリーシート送ったら書類選考だけで全部弾かれたとか、そんな感じ。ちなみに最後のは大学の同期の実話。世知辛い

 やりたい仕事があってもそれに就けるかどうかは個人のスキルによるし、容姿によって当落がある場合には更に生まれ持ったものも関係してくるので非常に難しい。そりゃスキルは磨けば良いし、顔に至っては整形すればなんとかなるみたいなパワータイプの意見もあるかもしれないけど、それは別として、敷居が高すぎて諦めて、普通のサラリーマンや事務仕事に……というのは少ないと思う。

 

②そもそもやりたいことがない

 これが一番多い気がする。そこまで熱心になれることもないし…やりたいことって言われても……みたいな。

 ここも結局運の要素で、やりたいことに出会えるというのは、仕事をするにあたって何をするか?と選択するまでの人生で、何と出会って何を感じてきたのかが一番大事になってくる。何かの舞台に行って感動して、そういうものづくりの現場に携わりたくなったとか、高校の頃に留学して、そのまま忘れられずにイタリアの会社に勤めるとか、人生の中で何か衝撃を受けたり、何かの体験を忘れられずにその後に影響するとか、そういったことで仕事を選ぶというのは少なくない話だと思う。そして、その選んだ仕事が自分に合ってれば最高。

 ただ、やりたいことがないまま社会に出たという人は、こういった経験を得られないままの状態で仕事を選ばなければいけない。その場合見るのは、「給料」「年間休日」「ボーナス」とかそのあたりで、やりがいなんて文字は浮かんでこないと思う。そうすると結局、金曜の夜を待ち侘びて、日曜の夕方が来ないことを祈るような生活になってしまう。白髪と煙草の本数だけが増えていくだけの悲しい人生になる。

 

③仕事に楽しさを求めてない

 これは少し違うけど、この人種も間違いなく存在する。仕事に楽しいとかキモッ…意識高い系?別に仕事なんてその場限りなんだし稼げれば良いじゃん、というやつ。

 この人種は、趣味人間に多い。オフの日に充実してれば良い、むしろオフの日にやりたいことがあるので土日固定休の仕事が良いとか、趣味のために稼げれば仕事はどうでもいい。趣味を楽しむ時間までのつなぎみたいに仕事をする。

 ただ、やっぱりこれも趣味の時間までに嫌いな仕事と向き合う時間が膨大すぎて、耐えられなくなるというのはよくある。実際、「別に稼げれば良いし」と言って適当に就活した挙句三ヶ月で退職した友人が山ほどいた。

 

 なんか色々書いてはみたけど、結局言いたいのは、仕事にするなら絶対自分が「これならしんどくても頑張れる」と思うやつの方が良いし、それなら楽しいものを選んだ方が良いけど、楽しいものに出会えるかどうかは今までの人生次第なので、まぁ頑張りましょうという感じだ。

 ちなみに、「好きなものを仕事にする」というのは、仕事にするとそれが嫌いになるという説もあるので、なんとも言えない。難しいね、仕事選びって。

 全く参考にならないと思うけど、世の就活生さんが、後悔しない就活をできますように。頑張ってください。