イエローナイフは朝

それが人生

二歩進んで一歩下がる

久しく何も書いていなかった。

自分はいつもこうで、何かを続けようとしてもすぐ辞めてしまう。紙媒体の日記もそうだ。今年はやるぞと意気込んで良い日記を買っても、結局一週間くらいで部屋の隅に追いやられている。そもそも、日記というのは大体が12月始まりでも1月始まりで、その頃は葬儀屋として繁忙期の真っ只中で息をつく暇もないわけで、日記をつけてる暇もない。

それでも、こうして文を書きたいと思う時は、大抵が母のことを思い出す時である。

 

最近、家の中を片付けている。

少し前までは、母のものは何も捨てられなかった。亡くなってすぐは、「少しずつやらなくちゃだね」と言いながら、父と二人で大量の服の整理などを始めたが、どれもこれも母の面影が強すぎて長時間続けることは出来なかった。そのうち、元々あって困るものでもないし、と言って片付けることをやめてしまった。やはり亡くなってすぐに物を片付けるというのは心理的に非常に抵抗があったし、母の物を置いておくだけで、母がいた時の生活からあまり変わらずにいられるような気もした。

今年の秋はスニーカーを買った。靴箱に収納しようとした時に、自分がしばらく履いていない靴が何足か陣取っていたので、少し捨てることにした。古くなったパンプスやサンダルを捨てているうちに、いっそのこと雑多に詰められている靴箱を全部整理しようと思い至った。そして手始めに何が入ってるか分からない箱を開けてみたら、母の靴が出てきたのだ。

その後も、箱を開ければ母の靴が出てくる出てくる。母はヒールやお洒落なサンダルは履かなかった。代わりに、皮の柔らかい婦人用の靴を好んで履いていた。恐らく5、6足くらいは出てきた気がする。

私は悩んだ。捨てるのは忍びない。しかし、もう誰もこの靴を履くことはない。このまま靴箱の肥やしにしていても……。私は決心して、母の靴を全て処分することにした。

父に、「お母さんの靴が沢山あるんだけど、そろそろ捨てても良いかな」と聞くと、「いいんじゃないかな。誰も履かないし」と言った。「私一人で整理して良いの?」と言うと、「整理するのも大変だから、やってくれると助かるよ」と父は言った。案外淡々とした物言いで、少しほっとした。

金属が付いてるものと付いていないもので分類し、靴が収納されていた箱は分解して燃えるゴミへ。自分の靴と合わせて、4袋ほどのゴミが出た。

母がいなくなった直後は廃人のようになりかけていたのに、今の私は母の身につけていた物を淡々とゴミ袋に放り込んでいる。私は冷酷な人間かもしれないと思いながら、黙々とゴミ袋を縛った。

その次の休みは、洗面所や洗濯機などの水回りを片付けた。母が使っていたヘアーセット用のスプレー缶やボディクリームを捨てて、用途の分からない化粧品も捨てた。貰い物なのか、普段使わない洗濯機用の洗剤も捨てた(父と二人になった今でも、生前母が買っていたものを使い続けている)。水回りは、母のテリトリーだった。しかし、そこも今は私が一番使うようになっている。あれから2年は経った。今まで使わなかったものは、父と二人での今後の生活でも間違いなく使わない。ならば捨てるしかない。私は元来捨て魔の節がある。ここは母の血でもあると思う。

 

前は、「母の私物を捨てる」ということに強い抵抗があった。生活から母の痕跡を消したくなかったし、そうすることで母が亡くなった日から遠ざかるスピードを少しでも落とそうとしていた。それでも、月日は平等に、残酷に流れていく。自分がどんなに母と離れたくないと思っていても、1年、2年と簡単に過ぎていってしまう。

1年目はまだ良かった。「去年、母が亡くなって」と言えた。2年経った時は辛かった。自分は何も進歩していないのに母の三回忌がきてしまったという事実は、母を遠く感じさせるものだった。

どうやったって、母は離れてしまう。私だけが進んでしまう。ならば、物を残すのではなく、私なりに別の方法で、母のことを大事にしなくてはならない。そう考えていた。

だから、物に縋るのではなく、父と私の生活の為に、二人が住みよい家に変えていかなくてはならない。

二人の生活に決して慣れることはないが、二人の生活として新しい形を作っていかなければならない。

そう思っていた。そう思うことで、母が亡くなったという現実から、ほんの一歩だけど、前進できたのかもしれないと思っていた。ほんの数日前までは。

 

休日に、家でだらだらしていた時だった。掃除機でもかけながらDVDでも観ようかと思い、ディスクを入れた。そして再生ボタンを押したら、ディスクではなく、内臓されたHDDに録画されたビデオが映し出された。

そこに、母が映っていた。

数年前に撮ったホームビデオだった。確か、ビデオカメラで録画したものをテレビに移す方法が分かったとかで、父がテレビにデータを保存していたものだった。その中には、病気の影もなく、孫達の面倒を見ながら台所に立ち、家事をする母の姿があった。

母が亡くなってから、生きて、動いて、言葉を話す母を見るのはこれが初めてだった。衝撃だった。「おかあさん」と、震える声が出た。遺影写真は毎日見ている。帰ってきたら必ず「ただいま」と声をかけるし、母の顔を見ない日はない。それでも、母の声を聞いたのは、実に2年9ヶ月ぶりだった。

父がビデオを回している。何気ない朝の食事風景だった。まだ1歳に満たない甥っ子が座り、台所のタイマーをいじっている。ボタンを長押しして、ピピピピと大きな音が連続している。「なんの音?」と声がする。母だ。「タイマーだよ」と父が答える。「すごい音だからびっくりした」と言いながら、トースターから焼けたパンを出している。元気な母だ。

画面が切り替わって、朝食を作り終えた母が席についている。孫の隣に座り、顔を覗き込んで笑顔になっている。その向かい側で、兄夫婦は安心してゆっくりと何か話している。母が笑っている。

私は泣いていた。涙が止まらなかった。

ずっと母の声を聞いていなかったから、母の声を忘れてしまっていた。あんなに毎日一緒にいたのに、声が思い出せないと思っていた。何年も前に会わなくなった友人の声は思い出せるのに、ほんの少し前まで一緒にいた母の声が思い出せなかった。なぜだかはわからない。母の元気な声が、病気の進行によってどんどん弱く小さくなり、最後には呟くことしかできなくなっていったからだろうか。それを認めるのが怖くて、最近は考えないようにしていた。

ビデオの中にいる母は、こちらを見て笑いかけていた。私は嗚咽し、「もうやめて」と呻いた。やっとの思いでリモコンを取り、再生を止めた。しばらく涙が止まらず、胸を押さえてうずくまりながら泣き続けた。

私が何より辛かったのは、この映像を父が見ていたのだということだった。一体どんな思いで見ていたのか。怖くてとても聞けなかった。父は、生きて動く母を見て何を思ったのか。私にしてみれば、ふと寂しくなって見るにしてはあまりに辛すぎるホームビデオだった。私は父に見てしまったことを悟られたくなくて、再生が始まったところまで巻き戻しをして、DVDも見ずにテレビを消した。

私が母の物を捨てすぎたことが起因していたら、という考えが頭をよぎった。私があまりにも無情に母の物を捨てるから、父が虚しさを覚えたのかもしれない。それなら私の責任か。父の気持ちは分からないし、それを聞く勇気も、覚悟もなかった。それを受け止めるには、あと何年もかかる。

 

結局、私は何も進歩していないし、母の幻影を色濃く背負っている。しかし、人生の薄暗い部分を母のせいにはしたくない。

今でも数日に一回は母が夢に出てくるし、夜中に起きて泣くこともある。それでも、闘病中に散々見ていた夢のように、母が体が痛がって泣いていたり、車椅子に乗っていたりすることはなく、明るく元気な母として夢に出てくるようになっただけで、私は救われた気持ちになっている。